昭和52年05月14日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受け たら神心となりて人に丁寧に話をしていくのが、真の道を踏んでいくのぞ。金光大神が 教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ。これが神に なるのぞ。神になりても神より上になるとは思うな。」

 神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげをと、金光様のみ教えというのは、尽きぬおかげの頂けれるお話なんです。いわゆる限りない無限大におかげが頂いていけれるためには、神より金光大神に尽きぬおかげを、神様が金光大神にお伝えになった真に信心とは、お徳を受けるためにはおかげを受けるためにはともう、様々な角度からお伝えになった。そのお伝えになった御教えを、私はここ30年近く毎日毎日皆さんに聞いて頂いておるのです。尽きることのないですね、お話もこれは私驚きです。
 しかもねなら日に例えれば三十分のお話致しましたとしてもね、どれだけになるでしょうかね。それが一年位の事じゃない、30年間続いておると言う事ですよ。本当に成程尽きぬ、金光大神のお話の内容というものは尽きない、尽きる事がない。私が一生掛りで説いてもまだ説き明かしえないほどの素晴らしい、いわゆる尽きぬおかげの頂ける内容を、包含しておるわけです。
 ですから皆さんが話を聞くだけではなくて、申しておりますように、素直に聞いて素直に行うとと言う事になって来なければならないと言う事です。昨日13日会をあのように盛大におかげを頂きました。13日会が終わりましてから、すぐ今年の学院生が六名学院に向かって出発致しました。ですからその六人の出発を見送ってすぐ私どもは後から、今度のご大祭の記念事業に今度おかげを頂いて、上に丁度四反ですかね、四反の田んぼが手に入ってしまいましたわけです。
 ですからそこを全部、の霊園にしようと、奥城を建立させて貰う霊園にしたい、というのでどこか参考になる所を見に行こうというので、昨日は遍寺ですかね、何か高山彦九郎の墓のある所ですね、あちらが見事な墓があるというので参りました。それからあの帰りにやっぱりあの寺町ですから、あの正義先生が奥さんの里の頼み寺で、あそこは何という寺でしたか、正行寺に参りました。私はもう昨日は非常に感動したんですけど、あちらの住職が草野の寿園寺さんの方から出られとる。
 それであちらの長男と私は小学校の同窓ですから、まあ私がいつも話しますように、小学校5年6年は、殆どあそこから学校に行っとるんです。いろんな関係があってですね、それでもう年は恐らく10位違いましょうけれども、向こうもああそういやあ、覚えとりますと言って。私も覚えておりませんでしたけれども、あまりに草野君に似ておったので、もう本当に見ただけで感動しました。
 もう兄弟ちゃあげん似とるもんだろうかと。それゃあもう亡くなっておりますから、もうちょっと40年ぶりでしょうね。もう本当に話をしながらお話のしぶりまでよく似てるんです。まあ本当に何十年ぶりで親しかった友達に会った様な気持ちで帰らせて頂いたんですけども。あちらはそれは大変行き届いたお寺です。もう立派なお寺です。そちらの納骨堂が大変素晴らしいというのでご案内頂いて見せて頂いたのですが、そりゃあ本当にあんなお寺の門徒さんたちは本当、満足だろうと思います。
 あれだけ大事にされるなら。もう隅々まできれいな、納骨室も本堂に続いて素晴らしい三重の塔風にできとています。まあでもお金にしたら随分かかるだろうと思いました。これはうちも五重塔風にね、うちもしようかと言う位に素晴らしかった。で帰りに廊下に書き出してあるのが、私は忘れましたけれど今朝しきりにその事を頂くんですよ。それはどう言う事が書いてあったかというと、「信心になりたるとき、もう往生は成就した」というようなことが書いてありました。
 信心になった時もうあなたは、いわば弥陀の浄土に往生することが出来るんだという意味なんですよ。信心の腹が決まった時もうすでに往生は決まったんだというわけです。沢山信心しておりますけれども、信心がここに極まったという人は、沢山はなかろうと思うんです。例えば合楽におかげを頂いて、まあおかげを頂くけん参りよるばってん、もっとおかげを頂くとこがあるなら、そっち変えたってよかと。
 また別にあそこにどうしとるわけでもないから、変わるなら変わったっちゃええ、やめたっちゃええという程度の事ではいけないと、もうこの方一心と定めいと仰るが、それこそ信心によらなければおかげは頂けんのだと腹が決まったと。だから信心によらんとおかげが頂けんのだと、その信心を支えて頂くのが合楽だ、金光大神が天地金乃神様に受けられたお話を、それをまたあらゆる角度から噛み砕いて教えて頂く。いつまでも尽きぬおかげの頂けれる話を頂くわけ。
 だからもう信心はここに極まったとね、そしてねいわゆる合楽を目指しての信心。神も助かり氏子も立ち行く、神と人が拝み合っていけれる信心というものを目指さして貰うと言う事です。私は今日はね61節の、神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞと言う所の信心しておかげを受けたら、と言う所に焦点を置いて、まっ聞いて頂いておるわけです。尽きぬおかげを頂けれる。
 しかもあの世この世を通してです。ですから信心はもうここに極まったと、信心の腹が決まった時にもう、あなたは極楽に往生する事が出来るという私は程しにです自分はこの道さえたどっていけば、必ず御霊の世界にでもおかげが受けらるという確信が生まれて来る訳です。今いわれる合楽理念を元にして、私共が生活していくかぎり、それは出来る出来んは別として、矢張り遅々とした歩みではありましてもその理念の焦点とする所を目指させてもろうて、1歩づつでも近づいていこう。
 もうこれに極まったと腹が決まったときに、信心が極まった訳ですから。往生もすでに極まったことになるのです。沢山お参りしてくるけれども、本当にそこまでおかげを頂いとるけん参っとるばってん、と言う様な人が多いんではないだろうか。信心がもうここに極まった、例えば家は改式しとるけんもうくるわんと言う事はないです。他所の教会で改式しとる人達が合楽に変わってくるじゃないですか。ですからね本当にそこに腹が決まった時、例えて言うなら今度霊園が出来る訳です。
 そんなら私共が孫子の末までもお縋りしなければならない、いうならお世話にならなければならない、いうなら奥城が建立されるという、所謂その前提としてその霊園がまず、4反あまりの庭園が出来る。その真ん中か上の方か分かれんけれどもいわば、お互いの行く末の事がそこにかけられる訳ですから、本当に腹がきまっとるなら一生懸命にならなおれんと思うですね。けど家は納骨堂があるけんで、家はもう死んだときは頼み寺があるけんでそげなんとではね、腹が決っとるとはいえないです。
 信心がここにこれだけ極まったという、例えばそれだけでも絶対と言う事じゃないです。例えば御遺骨やらここに預けとるけんで変わられんちゅう事はなか、変れる。問題は信心の腹が定まった時です。それでなら定まった所から霊園が出来る。霊園にもう本当にお互いがそれに打ち込まなければおられないと言う事になるのではないでしょうかね。私は今日、大変なことを頂いた。それは私共がこうやっておかげを頂いておると言う事は、自分の生き生きと神様へ向かう心が生まれてくる。
 それでおかげが頂かれる。その生き生きとした心がです。もうこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという一心が定まった時、いうならば天地の親神様の願いが、私共氏子の助かりを願いとしておられる訳ですから、私共がままになるおかげを頂いたときに、神様の願いがそこに成就したと言う事になるのです。私が毎日いうならば真っ白いご飯でままになっておると致しましょうか、中には麦飯の人もある粟飯の人もある、雑炊の人もありゃお粥さんの人もある。
 だから私共がままになっておる状態がそのまま神様がままになっておられる状態です。家はずうっと米の飯ばかりとそういう意味じゃない、私共がままになっておる程度という意味なんです。銀飯的にままになっておるか、粟飯的にいうならば代用食程度になっておるか、昨日十三日会に集まった方達の発表した方達の姿を次々に頂きましてね、そしてあのその人達がねままになっておる。
 いうならば程度を主食であるはずの、例えば日本人としては米の飯ですけれども、この氏子はこの程度にままになっておるんだと言う事が、ずうっと一人一人お知らせ頂いたんです。である人の所に参りましたら、これは馬のはみじゃなかろうかと思うようなのが神飯器にもってあるんです。よく見たら本当に馬のはみの様な感じですけれども、それをねもう。こげなものはむさくるしくて食べられんといわんばかりに、ちょこっと頂いてある所を頂いた。
 とてもこげなものは喉を通さん、それでも食べなければままに動けんから、まぁ食べちゃおるいけれども、とてもとてもむさくるしくて食べにくいと言う様なだったです。私はこれを頂いてですね、これは本当に大祓心行によって、神様がいうならば生き生きとし見えるというてもです、結局お互いの心の内容というものがです、矢張り銀飯的なきらきら光る様な心にならなければね、神様が本当においしかったと喜んで下さるようなものにはならない。それはそのまま私共にその通りの繁栄があるわけです。
 なるほど日々の改まりが第一だ、信心は本心の玉を磨くものじゃ仰るが、この磨く事に改まって行く事に掛けさせて貰う、自分の心が光り輝いて来ると言う様な人が大祓信行を信行として、一生懸命お供えする事になったら、それこそ銀飯のような御神飯をお供えする事になるのじゃないでしょうか。はぁ美味しかっと神様が喜んで下さる様なままになる。ままにはなってはおるけれども、神様もにがい思いをしながら、ただままになっておるだけだというのが、私共の身の上にも家の上にも現れて来る訳なんです。
 これは愈々をもっておかげを頂かなければいけない、いわゆる合楽理念に基づいたいわば清まり、改まりが出来なけばいけないなと、皆さん自分の所で大祓信行をなさっておられるでしょう。だから神様がままになっておられるけれども、本当にむさくるしくてこげなんとは食べられんばってん、というて食べなさる程度のいわば、神様にお供えしとる御神飯がこんなもんじゃなかろうかと、自分は麦飯くらいの所はお供えしとるごたると、それこそ馬のはみにするごたる様な。
 だから大祓信行をしとるというても、結局は私どもが改まるうえにも改まるという、言わば気持ちにならせて貰う。いや本当に信心がここに極まった、この神様のおかげを頂かんと立ち行かんと腹が決まった時にもう往生は疑いないのですけれども、あちらは真宗のお寺さんでございます。いわば親鸞上人様を宗祖とするお寺さんです。上人様が言っておられますように、もうどんなに悪人であってもです。どんなに汚い事をしておる人間であってもです、助かられるんだと親鸞上人が説かれたのです。
 善人ですら助かるのだから、悪人においておや悪人は尚更助かるんだ、それは信心に腹が決まった時に助かるんだと言う訳です。だから悪人でも助かるんだと、汚いものでも助かるんだと、助かる事は往生は出来ようけれども、なら如来様でもそれこそもうね、なら、むさ苦しいものを召し上がっておられる事になるのじゃないでしょうか。汚いものやらいうなら、悪人やら南無阿弥陀仏を唱えればそこに助かるんだ、信心はそこに腹を決めたら往生はできるけれども。
 弥陀の浄土に往生は出来るけれども、ならいうなら清まる上にも清まらせて頂く事を願いとして、信心を極まったという人の上に、神様がままになって下さると言う事は、それを神様に喜んで頂く様なおかげとは、その様な事だと言う事です。神様が本当に銀飯に鯛のお刺身でと言う様なです、神様がままになられる程のおかげが頂きたい。どうぞ神様に喜んで頂ける様なおかげを頂かせて下さいとはそう言う事。神様がままになられるでも最高のものでままになられる所のおかげを頂かせて貰いたい。
 どうぞ神様に喜んで頂ける様なおかげを頂かせて下さいと言う事はそう言う事です。だから信心が極まった、そしてそういう心に極まったという時にです、磨かなければおられない、改まっていかなければおられない合楽理念に基づいた生き方にならせて貰わねばおられないと言う様に成って来るんじゃないでしょうか。私は今日は本当に尽きぬおかげを金光大神に伝えてそれを金光大神が伝えて下さっておったものがこうして教えなら教えとして残っておる。
 それを合楽ではこの教典一冊をです、三十年間皆さんに説き続けておる、尽きぬおかげの頂けれるお話を皆さんに聞いて頂いておる。けれどもそれを素直に聞いて、素直に守れなかったら尽きぬおかげにつながらない。ならおかげを頂いておってもです、神様にむさ苦しいものを召し上がって頂きながらの助かりではです、それは金光大神の世界に往生が出来るとしましてもです、この世にある限りもう愈々もって清まろう、愈々改まっての信心を身に付けさせて頂こうという気でです。
 やっぱり本気で改まるそしてそういう少しでもという願いを持ってなら大祓信行という時にです、なら貧乏しておった時にはお粥さん、それがおかげで固いご飯が食べられる様になった、麦のご飯が頂ける様になった、そして段々おかげを頂いて、なら米のご飯に美味しいおご馳走いうなら、百味のおんじき的なおかげも頂かれる様に成ったと、そういう段階を追って段々におかげを頂いて参ります時にです、神様が又段階を追って助かって下さる事であり、まぁお喜びの度合いが大きくなって来ると言う事なんです。
 その神様のお喜びの度合いが私共に返ってくる、それがお徳になって行くと言う事になるのじゃないでしょうか。助かられると言う事は誰でも助かられる、上人様が仰っておられる、悪人においておやである。天地の親神様はそういう本当にそういうくずの子ほどかわいいと仰るのはそれなんです。泥棒しておっても悪い遊びをしとっても、金光様と祈る所です、腹が決まった時にもうあなたは救われた助かったも同じだと。
 そこで自分自身がこんなにも汚い自分であると、自覚が自分自身が愈々分からなければならない。教えの鏡を前に立てるとわかってくる。だからこのままでは、いつまでも神様にむさ来るしいものを、召し上がって頂かなければならないのですから、いつまでも自分自身の家にも身にもです、なんとはなしにむさ苦しい生活しか出来ないと言う事になるのです。今日私はこの所をいわば力説した訳です、尽きぬおかげを頂けるお話を頂いておる、だから尽きぬおかげ。
 尽きぬおかげだけではない、尽きぬおかげは向上していおかげ、去年よりも今年というように日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげが頂いていけれる信心を身に付けていく為にはです、本気で清まりもしよう改まりもしようと言う事に成って、本当にその有難い勿体ないが、なら大祓信行と言う様な事に成って参ります時に、神様に喜んで頂く様な言わばおかげを私共自身が頂ける事になるのです。勿論そういうおかげを頂くときにです、そういうおかげを人に丁寧に。
 れこそ愛の心をもって伝えなければおられないでしょう。それが真の道を踏んでいくのだと言う事さえ仰る、それが神になるのとまで仰っておられますから、成程真の道に間違いはないなぁ、生神金光大神を目指して行くんですから、なるほど神になると言う事になるでしょう。昨日丁度菊栄会の方達が五名です、それから松栄会の方たちが5名です。はぁこれは合楽も変ってきたなぁと、この動きがね思いましたいわば若い方達にバトンタッチが出来ていきよるなぁと思いました。
 それに総代さんが、繁雄さんが一人それと信徒会長と私で御座いましたが。段々皆がおかげを頂いて若い者への信心のいうならバトンタッチが出来て行く様な信心をお互いさせて貰う、それも折角伝えるならばです、そういう間違いのない信心を伝えていかなければならない。そして今なら十年祭を目指してまぁ、その御用の一端として土地の購入、そしてそれを霊園に庭園公園化していく訳です。それには矢張り御霊様たちがむさ苦しい、じめじめしたと言った所ではなく。
 それそこまぁ極楽という所はこんな所じゃろうか、本当に桃源郷と言う所はこういう所じゃろうかと言う様な雰囲気を少しでもかもせれる様な立派なものにしたいと念願しております。そこでなら皆さんの腹が決まったと今日の御理解、もう合楽一本にきまったと、もう合楽の信心を頂く以外にはないんだと腹が決まったらです、私は今度の記念事業には本当にずから打ち込んで御用が出来るのではないかと、そういう人達はと思います。
   どうぞ